新たなスピンオフ「怜-Toki-」がいよいよ連載開始され、皆が歓喜する拍手喝采な宴の隅で、
私は一歩引いた冷めた目で読んでいました。
何かが違う。そんな違和感のようなものを抱いたからです。
ストーリーは立先生のネームチェックが入ってOKが出ていますから良いとして、
完成した絵に違うと感じさせる何かがあるのだと思い、読み返してみて、気が付いたことがあります。
ヤングガンガン、ビッグガンガンを、何気なくパラパラパラとめくると、咲とシノハユは目に飛び込んできます。
それは咲が好きだからではなく、YG・BGの作品群とは描き方の異なる"映える絵"が引き付けるからだと思います。
ところが、怜-Toki-は他の掲載作品群と同様にパラパラと流れるページに埋もれていました。
立先生とあぐり先生は別の個性がありながらも共通する部分があって、シノハユはすんなり浸透しましたが、怜-Toki-にはそれが感じられなかった。
絵心の無い私がこの違いを文章で伝えるには、適切な言葉が見つけられず、多々語弊を生むとは思いますが、
おそらくは、線の描き方が違うのではないか。
立・あぐり先生は、輪郭線は歪み無くほぼ均一に整い、服から小物までしっかりと描き切り、過剰な線は足さず、ベタとトーンも隙間を空けず描いている。

余分は無く、不足も無い。
細部にぼかしがなくハッキリ伝わるから目にとまりやすい。
対して、怜-Toki-を含めた他の掲載作品群は、線がラフなんです。

- ラインが均一でない
- 服の細部がつぶれていたり線が途中で消えている
- ハイライトを輪郭に多用していて、ベタやトーンが抜けているように見えてしまう
- 線で影を作っている
- 線が何重にも描かれたり、線がはみ出ている部分もある
線がラフな一例として、特に男性や老婆でそれが如実に見て取れます。

下絵を丁寧になぞるというより、デッザン的にシャッシャと入れ込むという感じでしょうか。
細かい部分ですが、これらが全体的に抽象的な絵となって、作品群に埋もれる要因ではないかと思うのです。
流し読みで済ます漫画なら些細なことでしょうが、1ページ・1コマ・1セリフの全てで咲世界に浸るファンとしては、そうした部分が気になってしまいます。
2作品は、写真とイラストくらいに違います。
漫画だとわかっていながらも、リアルな背景と鮮明な描写が合わさって、彼女達は確かにここに居ると想い馳せてしまうほどに、その世界に深く入り込んでゆくのが咲です。
私が怜-Toki-を一歩引いた目で見てしまったのは、抽象的な光景が"これは絵なんだ"と認識させ、感情移入できなかったからだと思う。
ペンの特性だ、漫画の技法だ、先生の作風だと言われればそうなのでしょう。
めきめき先生を批判しているわけではありません
一読者として、やはり咲なのですから、小林立の流れを汲む絵で見たいという想いが湧いただけです。
全てのスピンオフは本編にリンクしていますが、咲日和は外を流れる支流で、ほぼ別枠として楽しむことができますが、
阿知賀編・シノハユ・怜-Toki-は、眺める視点を変えた本流の大河というイメージで捉えています。
ですから余計に、立・あぐり先生と系統が違う描き方に違和感を覚えたのかもしれません。
いろいろと書きましたが、怜-Toki-がシノハユと並ぶBGの看板タイトルになることを期待しています。
1話2話を読んで、最後のページで

JSでも怜だなwと笑わせて頂きました。